『蔵と家族の歴史と思いを繋げる3代目の女性杜氏』
杜氏/松永 晶子(大島郡伊仙町)
奄美本島からフェリー南に約3時間半。
豊かな自然と闘牛文化で有名な徳之島で、黒糖焼酎蔵元の3代目女性杜氏を務める松永晶子さん。2020年、蔵の原点ともいえる銘柄「マルシカ」を半世紀ぶりに復活させ、かつ、女性杜氏ならではの感性で造り上げたリキュールが話題です。
代々女性が受け継いできた蔵の歴史や、一方で「いつか逃げ出そう」と思っていた若い頃など、母子で酒造りに向き合ってきた松永さんの思いをお聞きしました。
――松永さん、こんにちは。今日はよろしくお願いします。早速ではありますが、松永酒造場の成り立ちを教えてください。
(松永)
昭和27年、祖父の松永清と祖母タケ子が伊仙町鹿浦地区で創業しました。祖父が経営関係のことをやり、祖母がお酒造りを担当したようです。
女性杜氏はその時代でも珍しかったみたいですが、昔は各家庭で酒造りを行っていので、台所を仕切っていた女性の仕事でもあったようです。時代が変わっても、その名残はあったんでしょうね。とはいえ、本格的なお酒造りは初めてということもあって酒造りを学ぶために沖縄から杜氏の方を呼んだらしいのですが、「学ぶことはない」と思ったのか一週間で追い返したそうです笑
男の子が生まれなかったので、2代目も女性杜氏として母が受け継ぎました。
焼酎ブームの時に、女性杜氏がクローズアップされることもありましたが、私の中では女性杜氏に対して特別な思いはなかったんですね。でも、今考えると女性でつなげてきた蔵は全国でも稀なのではないでしょうか。
――松永酒造場さんの特徴を教えてください。
(松永)
蔵に来られる皆さんによく言われるのが「蔵がとてもきれい」ということです。
私としても「清々しい風が流れている蔵にしたい」という想いがあり、蔵を訪れる方にも「気持ちのいい蔵だね」と感じてもらいたいです。
――焼酎造りに対するこだわりはありますか?
(松永)
母は「酒造りは子育てと同じ」と言っていました。
若い頃はピンとこなかったのですが、私自身も子育てを経て、蔵自体が愛おしいという感覚になってきました。
手をかけるべきところは手をかける。でも、突き放すところは突き放す。
というところは子育てと同じなのかなと感じています。
――松永酒造場さんは代々女性杜氏ですが、女性杜氏としての苦労などはありますか?
(松永)
母親は、割と「男に負けるな」ということを言う人でした。
でも私は男性、女性ではなく、「個の力」だと思っています。
それぞれの個の力を発揮できたらいい。
今年(2021年)は仕込みを上が72歳、下が32歳の年齢層の違う4名でやっていて、互いにカバーしあうことができて本当に楽しい仕事だと感じています。
お互いに特技を活かして、思いやりを持ちながら作業できたらベストですよね。私はこれができるけど、これはあなたにお願い、という風に。
女性だから苦労しているというのはまったく感じたことがないです。
――松永さん自身は、杜氏になるということをいつから意識しだしましたか?
(松永)
私、末っ子なんです。
だから、継ぐという意識はなく高校まで育ちました。でも高校3年生になったときに諸々の事情で急に私が継ぐと言うことが濃厚になり、「東京農業大学にいきなさい」と両親に命じられました(笑)。
とはいえ、私の中では「まだ継ぐかどうかはわからない。いつか逃げ出してやろう。就職も東京ですれば帰らないでよくなる。」と思っていました。でも卒業を目前とした大学4年の1月に父が亡くなり、有無を言わず帰ってくるように言われ、島に帰ることになりました。
大学は教授の計らいで卒論も完成し、単位もとれていたので無事卒業はできましたが、バタバタと東京から引き上げて、そのあとは杜氏としての人生を歩むことになりました。
いつか島から逃げてやろうと思っていましたけどね。
その時はちょうど焼酎ブームの時で、蔵がすごく忙しかったのですが、仕込みが終わる夏の時期は東京に遊びにいってました。
そこで母の賢いところが、父がやっていた経理の仕事を私にさせるために「経理の勉強をするためにだったら東京へ行ってもいいよ」と言うんですね(笑)。 私は東京に行きたいがために素直に聞いていました。
アメとムチの使い方がとても上手でしたね。私は私の考えで動いていると思っていましたが、今考えると完全に母の手のひらでコロコロ動かされてたなと思います。
でも、そのおかげで18年前に母が急死した後も、全く困ることなく社長業に就くことができました。それは本当に感謝しています。
(マルシカ黒糖焼酎)
――杜氏人生の中で一番大変だったこと、嬉しかったことを教えてください。
(松永)
焼酎ブームの時は忙しすぎて大変でしたね。まぁ、でも嬉しい悲鳴ですよね。
辛いのは忘れてるのか記憶がないんです。
嬉しかったのは、母に「ありがとう」と言われたときですね。
母はとにかく厳しい人でした。特に何かを言うわけでもないのですが、存在自体が厳しい人だったんです。そんな母に「ありがとうね」と言われた瞬間がやっぱり一番嬉しかったです。
20代の頃は、杜氏をしながらも島を出たかったし、母からは「仕事に集中してない」なんて言われながら、母との衝突もたくさんありました。
「いつか逃げ出してやる」「島から出ていく」
そういう葛藤を何年も持ち続けていました。
その時に焼酎ブームの中で、<女性の杜氏、母娘の杜氏>としてTVなどで取り上げられて、チヤホヤされた時期もあるんです。
そういう状況に浮かれている自分と逃げ出したい自分がいて、そんな時にがしっと手綱をつかんでいたのが母でしたね。
そのTV取材を受けて、母の姿を客観的にみられた時に、「あ、この人すごいな」とわかり始めた自分がいて、そうすると仕事に身が入るようになりました。
その時に腹をくくって、杜氏としてやっていくという覚悟が生まれました。26~28歳でした。
その時期に何がきっかけだったのかは忘れましたが、母に一言「しょうちゃん、ありがとうね」と言われました。母の目から見ても何かが変わっていたのでしょうね。
その瞬間がすごく嬉しくて。私はずっとそう言われたかったのかな、母に認められたのかなと感じたのを覚えています。
(左からグアバ茶リキュール、シークニンリキュール、黒糖焼酎)
――昨年、半世紀ぶりに復活させたマルシカへの想いをお聞かせください。
(松永)
今は黒糖焼酎が好きですが、20代の頃は自分で作っておきながら黒糖焼酎の美味しさがわかりませんでした。どうしてみんなこれを飲むんだろうと(笑)。
そんな想いもあって、若い女性にもっと親しんでもらうにはどうしたらいいんだろうとずっと考えてました。3年ほど前に友だちからあるリキュールをもらってそれを飲んだらすごくおいしくて、あっという間に1瓶空けてしまったんです。
でもその時に自分が愛飲している飲み方の方が美味しいかもと思って、それを皆さんに紹介したいなと思ったんです。
松永酒造場のお酒として出すなら、祖父母が残してくれたマルシカを復活させたいと思い、それが形になったのがあのマルシカシリーズです。
印象的な〇に鹿の文字は昔のデザインのまま残しています。昭和27年(1952年)に造られていたものですが、その時からローマ字でMARUSHIKAと書かれているんです。そこは米軍統治下の影響だったと思うのですが、時代背景をとってもそのセンスがとてもかっこいいですよね。
どれをどれくらい入れたらいいのかというレシピ(分量)作りが大変で、製品化するには2〜3年かかりました。毎晩、飲みながら味の確認と調整をしないといけないので、本当にそれが大変でした(笑)。
――松永さんにとって焼酎作り(お酒造り)とは?
(松永)
かっこよく言うと「魂」かな。
お酒をつくっているときに、蔵の中で母や祖母と話をするんです。魂の呼応のような。そうすると自分の魂に響いてくるというか。
いつも母や祖母と会話をしながらお酒を造っています。
――お客さんへメッセージをお願いします。
(松永)
母の残した言葉なのですが、
「蔵出の酒に思はず願ひをり 楽しき酒に飲まれよかしと」
蔵を出ていくお酒に対して楽しいお酒として飲まれて欲しい。という願いを込めた言葉です。
酒は飲むもので 酒にのまれるな。ともよく言っていました。私はよく飲まれていましたが(笑)
これからも皆さんが楽しい気持ちで程よく味わいながら飲んでいただけるお酒を造っていけたらいいなと思います。
(松永酒造2代目杜氏、玲子さんの詠んだ歌)
脈々と受け継がれてきた杜氏としての魂。松永さんの生き様に心打たれたお話でした。
商品の裏側にあるストーリーを知ることでより一層美味しいものに感じますね。
今宵の晩酌はマルシカシリーズでハナハナ〜〜〜(乾杯)!